亡き祖母の生誕の日。存命ならば106歳!

祖父母には可愛がってもらいました。

父方・母方問わず両方の祖父母に小さい頃から本当に可愛がってもらった記憶しかありません。

母方の祖母はわたしにとっては特別な存在。そんな母方の祖母の誕生日=生誕の日が今日なのです。

生きていれば106歳になるんですね。大正6年生まれです。

⭐️宮崎と熊本・・・

父も母も宮崎出身です。(自宅では今でも宮崎弁が出ています)

なので、双方の祖父母は宮崎在住でした。

わたしは熊本生まれの熊本育ち・・・

両親が共働きでしたので、幼い頃は長期の休み(夏休み・冬休み・春休み)は、宮崎に預けられていました。

特に、母方の祖母の家=従兄の家に預けられていました。

今夏休みですが、ラジオ体操やプールも従兄が行っている学校や町内会でハンコを押してもらっていました。( ;∀;)

やっぱり母方の祖母との思い出がいちばん心に・記憶に残っています。

無条件でわたしを可愛がってくれましたし、両親から叱責されたときでもわたしの味方になってくれました。

いつもは宮崎にいるのですが、たまに熊本にも来てくれました。

幼い頃は「ばあちゃんが熊本に来る」ということで妹と喜んでいました。

⭐️裁縫のプロ!

祖母は裁縫のプロでした。

正式にはプロというより趣味だったのかもしれません。

わたしにもいろいろ作ってくれました。

弁当袋はよくよく使っていましたからね。

とにかく、いつも手が空いているときは「裁縫」していた記憶があります。

⭐️家庭訪問でも役者だった!

わたしが小学生の頃は、担任の先生は1・2年と3・4年、5・6年と基本持ちあがりでした。

なんと、わたしは1・2・5・6年と同じ女性の先生でした。

家庭訪問がありますが、その先生と祖母は親しかったからですね!!(^^)!

冒頭書いたとおり、両親が共働きでしたので、家庭訪問はいつも「予備日」でした。

それもいちばん遅い時間帯。

当時の先生が自転車で訪ねてこられ、母の帰りが遅いときは祖母が先生との話し相手になっていました。

今でもその先生とはお付き合いがありますが、会うと祖母の思い出話しをしてくれます。

先生にも祖母が印象に残っているのでしょうね。

⭐️亡くなって17年・・・思いはつのる・・・

平成16年だったかな・・・祖母が亡くなったのは・・・

わたしの結婚式には来てくれました。

亡くなったときは正直大泣きしましたね。

一報を聞いて大泣き。仮通夜で大泣き。通夜で大泣き。告別式で大泣き。出棺時に大泣き。火葬場で大泣き。

これ以上涙が出ないというくらい泣きましたね。

たまにしか会えない祖母だったのですが、可愛がってもらったから余計でしょうね。

蛇足ですが、祖母がいつもいる宮崎の従姉兄弟が羨ましかった気持ちが子どもながらにあったのでしょうね。

⭐️忘れない気持ちが供養になる!

父方・母方の祖父母の墓は宮崎市内にあります。そうそうしょっちゅう行くことができません。

宮崎行ったら必ず墓参りしています。

今年の1月には約3週間弱宮崎に滞在しました。そのときも空き時間で墓参りをしてきました。

ちなみに、今回書いている母方の祖母は戦争で旦那を亡くしています。

幼子3人を抱えて相当苦労したと思います。

想像を絶し、わたしなんかが簡単にブログで書けるものではないくらいの苦労があったのだと思います。

あるお墓の会社のPR?で観ましたが、「亡き人を忘れないのが供養になる」と・・・

わたしに非常に影響を与えた祖母・・・忘れることはできません。

こういう節目節目には故人(両家の祖父母)を思い出すことが確かに供養になるのかもしれません。

そして、コロナが落ち着いたら必ず靖国神社に行きます。戦死した祖父の霊前にお参りしてきます。

今日はそういうことを想いましたね・・・

合掌