おはようございます。
10月25日です。また新たな一週間が始まりますね。張り切っていきましょう。
さて、先日「私本太平記」を読んだことをブログに書きました。
その際に、熊本(肥後)の豪族:菊池一族:菊池武光公も物語に頻繁に出てきました。
読んでいてなるほど~と思いつつ、こういう武士がいたんだな~と勉強になりました。
実際にここ数ヶ月仕事で菊池に行く機会が多くなっています。
市内の公共の施設には菊池武光公のパンフレットやパネルがあったり、菊池神社横の公園には菊池武光公の騎馬像があったり・・・
菊池市民の菊池一族に対する「想い」というものが伝わってきます。
そういうところを書いていきます。
🌟菊池一族とは・・・
時代は平安時代後期から鎌倉時代や南北朝時代・室町時代あたりになります。
熊本(肥後)には、有力な豪族が3つあったといいます。
「菊池氏」「阿蘇氏」「相良氏」だそうです。言われてみると歴史上よく聞く名前ですね。
その中でも菊池氏は中央(京都・朝廷)まで名を轟かせたというくらいの名士ですね。
今の時代はネットや携帯がありますが、当時は「文」(ふみ)でのやり取りですから、情報が伝わるにも時間を要したのでしょうね。
そして、一族の歴史としてずっと「朝廷」に仕えたということ。
それこそ「私本太平記」の時代は、朝廷が南北に分断されますが、北朝(足利幕府側)が優位な立場にあったにもかかわらず、南朝(後醍醐天皇)に付いて戦ったということです。
信念がわかりますね!
室町幕府をつくった足利尊氏も一目置いていたようです。
🌟菊池武光公登場!
その「私本太平記」にも出てくる菊池武光公ですが、菊池一族の第15代になるそうです。
公共施設には、このような「イケメン」の菊池武光公があります!
戦上手とも知られ、南朝:後醍醐天皇の皇子懐良親王を盛り立てて九州を平定したと言われています。
有名な菊池武光公の騎馬像もあります。
青空に映えますね!
観光スポットですし、観光写真撮影の定番の場所だそうです。
ちなみに、上の写真の左側が菊池神社になります。(菊池一族を祀っています)
写真の後方奥側に20㎞くらい行くと菊池渓谷です。
もう少しアップにしてみます。
☝台座には「菊池武光公」と書いてあります。
☝菊池武光公が持つ軍配や視線は福岡の大宰府のほうを向いていると言われています。
当時九州の政治の中心は大宰府でしたからね。菊池から大宰府までは100㎞くらいですね。
それを歩いて走って馬で・・・行った時代です。
この頃が菊池一族最盛期だったようです。
☝裏面からの写真・・・
銅像の後方に太陽・・・
なかなかいい感じの写真・・・(自画自賛)
☝菊池武光公についていろいろ書かれています。
地元菊池の中原松月堂という和菓子屋さんでは、そのものズバリ『武光公』というお菓子をつくられています。
夜のお店も雰囲気ありますね!
価格は150円です。
可愛らしいお菓子です。
スライスアーモンドを乗せたお菓子。
断面は・・・
なんと、このお菓子は、菓子博で栄誉賞を受賞したというお菓子なんです!
🌟菊池を文教の里とした菊池一族!
菊池市は「温泉の街」と言われます。
確かにそうですね。
しかし、別に「文教の里」とも云われます。
地元の菊池高校は県内トップレベルの進学校でもあります。
その菊池を「文教の里」としたのが菊池一族。
戦・武術だけでなく、勉学・文化にも精通していたそうです。
そういうところから菊池市が「文教の里」と云われる所以でしょうね。
菊池市民のかたと話す機会も多々あります。
市民のかたは「菊池」に誇りを持っておられますね。
自分が住んでいるところ、出身地に誇りが持てるのは素晴らしいですね。
わたしも「熊本」「熊本市」には誇りを持っています。
ちょっと小話になりますが、明治維新の雄である西郷隆盛。いまさら説明は不要です。
その西郷隆盛の「出」も菊池だそうです。
さらに、西郷隆盛が島流しになったときの名前は「菊池源吾」と名乗っています。
西郷隆盛も菊池市に「縁」があったのですね!
今日も読んでいただきありがとうございました。
一日頑張りましょう!