40年前の「ぼくら」の基地?が壊されている・・・

地元熊本でのランニングコースの中に、幼馴染の家の前を通るコースがあります。

先日走っていたら、解体中でした。

40年前の思い出が蘇ってきます・・・

☆「ぼくら」の基地(たまり場)だった!

その友人とは、小学校入学時からの付き合い。

同じ地区だったので、入学式に一緒に通学したことが最初の出会い。他に同じ地区から「ぼくら」入れて4人男子がいましたから、全員で通学。今でもその写真があります。

その友人とは、一年・二年・五年・六年と同じクラス。中学校も同じ中学校。同じ野球部。腐れ縁のような間柄。

友人には兄がおり、「ぼくら」の中では「親分」と呼ばれていた。

その友人宅は「ぼくら」の基地でありたまり場だった。

たまり場といっても変なことするわけでもない健全なたまり場。!(^^)!

間取りは今でも覚えている。

そんな友人宅が解体されていた・・・

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確かに、地震後に「赤紙」が貼ってあったのはランニング中に見えた・・・

☆蘇る40年前!

その友人宅はお母さんが元気で、「ぼくら」が来るとお菓子や飲み物をいつも用意してくれて、イヤな顔一つせず迎えてくれた。近くに「野原」があり、少年が野球するにはもってこいの広さだったので、友人宅を拠点に毎日野球をしていた。

友人の兄、さきほど「親分」と書いたが、当時の口癖で「ババ」とよく言ってた。まあ、「やばい」ということ。

そして笑いが絶えないので、いつしか「ぼくら」は、その広場を「おわらいババ球場」と呼んでいた。

我が家でも、「今から、おわらいババ球場に行ってくる」という具合で話しが通じた。

携帯もなにもない時代ですからね。

解体されている現実を見て、そのような40年前が蘇ってきた・・・

懐かしい・・・

昭和50年代の話し・・・

古き良き?時代ですよね。

☆以前声かけられてよかった!

幼馴染の友人は携帯に登録してあるので、連絡とることは可能。でも連絡はとりあっていません。

お母さんも地震の前に、ランニング中久しぶりにお見かけした。本当に久しぶりに・・・

お声かけさせてもらいました。

最初は「誰?」という感じで見ていたが、名前を伝えると昔の笑顔が見られた!

「懐かしいね~」ということで、数分間立ち話し・世間話しをしていた。

地震以降は家に人気がなかった。おそらく息子のところに避難したのだろう。

そして今解体・・・

昔の思い出が消えていくようで辛い気持ち。

熊本地震はいろんなものを失わせた・・・

誰にも責任がない天地災害。でも寂しい気持ちがした。

ブログを書いていて思った。一度友人に電話してみようと・・・

「ぼくら」の基地は胸の中にしまっておこう!